フィヒテ『人間の使命』レビュー

 

 

5100Tdsx75L._SX358_BO1,204,203,200_

 

 

フィヒテの『人間の使命』(1800年出版)を読みました(岩波文庫/2016年春リクエスト復刊)。フィヒテ-ヨハン・ゴットリープ・フィヒテはロシアの革命家・アナーキストのミハエル・バクーニンがその生涯の青年期に初めて熱中した哲学者であり、『人間の使命』はそんなバクーニンが初めてロシア語訳した哲学書でもあります(間違い…訳したのは『学者の使命』みたいです)。1939年出版で文字もすべて旧字体旧仮名遣いと読みにくいことこの上ない訳書ですが、およそ1ヶ月かけてなんとか読むことができました。

感想としてはただただ晦渋という一言につき、なんといっても「疑」「知」「信」の3篇に分かれている本編の最後の章、「信」で説かれる独自の神学はキリスト教徒でもなんでもない平成生まれの日本人には「トンデモ」としか言いようがない電波スレスレの文章が飛び交っており、この人は頭悪かったのか?と心配になるほどでしたが、タイトル通り哲学の本というよりは人間がどう生きるべきかということを主題に唯心論や形而上学を語っていくという構成で、人生論として読めばここまで回りくどく説明する必要があったのかはともかく、当時の社会でどういうものが是とされてきたかがわかるというある種の空気感的なものが刻印されている書物です。

3篇を1つずつ説明していくと、まず「疑」の部分で説かれるのは決定論です。つまり身の回りのものがすべて物質だということは、それらの総量もその配置もすべて運命によって決められていて、未来はすべて今ある物質同士の相互作用によって実は厳密にあらかじめ決まっているのではないか、という話です。そこでフィヒテはそれなら人が自由に生きようとすることさえ運命の手の中にあるのだから、そうすると本質的な自由は存在しないのではないか、という疑問が投げかけられ「知」に移ります。

「知」は精霊というキャラクターとの対話編形式になっており(そういうのがやってみたかったのでしょう)、議論によって人間の認知能力を細かく分析していくことによって、人間の目に映っている世界というのはすべて「目」という感覚器官が意識に見せている映像であり、耳に聞こえる音も「耳」が意識に聴かせている音声であり、意識はそのような形でしか外界の事物に触れることしかできないから、人間にとって外界の事物とは感覚器官が見せる表象に過ぎない、という結論が導き出されます。そしてその過程で、人間が「私」を意識するのも一度私を客観化し、そこに主体という観るものを対置することによって初めて成立する、ということがわかり、これを応用して、この主=客の関係というのは人間が外界の事物を「見たり」「聞いたり」するときにも生じている、ということが明らかになります。なぜなら何かを見ているとき、それは客体であり、自分という主体に対面するものとして現れるからです。つまり何かを見ているときも、それを見ている私という意識が、そのものの意識と同時に存在しているのです。そしてそんな客体の意識も元はと言えば感覚器官が見せた外界の事物の影(夢の映像)のようなものなので、感覚器官を構成するのが自分の身体そのものであるという理屈から、”外界として表象されるもの(自分の中に現れるもの)=自分自身(身体そのものの個性(視力とか聴力など)の能力から導き出されたもの)”という答えが導き出されます。ここで精霊がどういうメッセージを伝えたかったかという点をものすごくざっくりまとめると、「ものの見方は人それぞれである(人それぞれに見ている世界がある)」ということです。え、それを言うためにそんなまどろっこしいことを延々書いてたの?と言いたくなるげんなりもげんなりな数十ページなのですが、おそらくそれが当時のこういう本の書式だったのでしょう。この人それぞれ、には単に人の性格だけでなく、性格というものを生み出す人間一人一人に固有の身体的・感官的な能力(つまり個々人の物質的な要素)も加味されているという点に注意が必要です。そこがミソです。

しかしこれで「疑」で抱いた決定論については「(フィヒテが「疑」で抱いた疑問も、”人それぞれ”の見方の一つに過ぎない、ということになるので)なんだ僕の見方が偏ってただけかぁ、ふぅ。」で済むのですが、今度は逆に、ものの見方が人それぞれなら、一体どれを信じたらいいの?という問題が発生します。知らないよーそんなの勝手に自分の頭で考えてよーという感じなのですが、ここでフィヒテ君が思ったのは、どう考えても「知」で考えたことも「疑」で考えたことも1000%間違えている気はしないので、もしかするとそれぞれもそれぞれなりに正しいところがあって、そうすると結局人が何かをどう確信するかというのは、それをどう信仰するか、あるいは信仰できないかの問題ではないか、ということです。ここから「信」篇がスタートし、熱くてたまらない「お前の信じた道を行け!!」論の18世紀バージョンが始まります。

ここで大事なのはあくまでこうして「信」でさも正解のように語られる人生論はあくまでフィヒテが信仰・確信していたものの開陳であるということです。「信」はこの本で1番長く、240pほどの本文の100pほどを占めていますが、もっぱら語られるのは当時フィヒテの称揚していたであろうキーワード、「良心の声」と「公衆道徳や倫理観に従って生きること」の圧倒的正しさです。良心の声は心の奥の衝動によってやってくる衝動的なものであり、自分でも制御できない何かの力の現れであるとフィヒテは言います。もちろん衝動的に人助けをしてもその成果が良い方向にでるか悪い方向にでるかはその時々ですが、フィヒテはそれでも、良心の発露(という自分にとっての、自分の中だけで通用する、自分だけの絶対的正しさその衝動的な)が、この世界じゃなくてもどこかで絶対反映されているはずだ、と言います。フィヒテはいいことをして報われない的なことがめちゃくちゃ許せないタイプの人だったのでしょう。そこでフィヒテは大胆にも超感性世界、感覚器官では決して捉えることのできない、地上的世界の外にある世界の存在を提唱します。この部分が本書のキモであり、最もイタいところであり、最も引いてしまうところであります。しかし分析はいたって冷静を装って続けられていきます。

フィヒテによると人間の心の奥の「良心の声」とそれを惹起させる衝動は超感性世界にある大きな意志地上的な現れで、意志だけが(意志というものは内奥からくる衝動なので、これだけは純粋に人間の身体的・精神的な構成要素に由来し、表象やそれに影響された知識・記憶ではない)外界の事物(感性世界)から切り離され、超感性世界とつながりを持つというのです。人間は良心の声に従って行為したとき、行為は物質的な動作として身体を通して現れ他の物質的存在に作用するので、良心の声に従っていないとき同様、この地上世界の中でひとまずの結果を生み出しますが、それとはまた別に、超感性世界の方でも、純粋な意志の働きの結果として(超感性世界には大きな意志しかないので意志以外に働くものも結果するものもない)何らかの要素が蓄積されていく、というのです。そしてそれは意志自体が性質として「良心」、「善意」を前提しているものの結果なので、「善」以外の何物でもないだろう、というのがフィヒテの理屈です。

だから人間が善意でやったことはこの地上でどんなおぞましい結果をもたらそうとも、超感性世界(めんどくさいのでざっくりいうと神様のいる天国ですね)では「善意」として蓄積されていくので、自分の行動をこの感性世界に合わせてコロコロ変えたり、それによって臆病になったり不自由な思いをする必要はなく、人間はこうしてこの世界に生きると同時に内なる意志に従って超感性世界でも同時に生きているように行動することによって、地上の束縛から逃れ、生きながら永遠に到達することができるのです。

 

書いてて非常にサブくなりましたが、以上がこの本の概略です。僕ははじめこの本を読み終えたときフィヒテの意図したものがわからず、何度も読み返しついには大学を卒業して以来ノートを取ってまでその意味をわかろうと試みました。しかしそうやってフィヒテの言わんとしていることが要所要所でわかればわかるほど、フィヒテが言いたかったことは哲学の思想とか汎神論とかそういうことではなく、単純に1人の思い悩む人間が自分がどうやって生きていけばいいかわからないとなったときに、それではこの世の中の周りに見えるものをすべて主観的に徹底的に考えることでその内実を明らかにし、その上で自分にとっての答えを見つけて生きていきましょうという人生論なのではないかと思えてきました。もちろんそのためにフィヒテは自分の生き方しか提供できる素材がなかったのですが、そういう「知的生き方文庫」な1冊だと思うと、最終的な結論がキリスト教万歳なのは仕方ないにしても、1人の”哲学者的人生”のモデルケースとして、非常に読み応えのある本だと思います。その世界観は説明の複雑さの割に異様なほどシンプルで、フィヒテという人の素朴さや善良さ、もとい18世紀の人々の精神的な余裕感のようなものを感じますが、きっと文化程度がある程度まで高くなると、こういう本を書いて読むぐらいしかやることがなくなってしまうのでしょう。そういう「本当は別に読まなくても知らなくても全然いい感じ」がこの時代のヘーゲルとかそういった哲学者全般の著作を分かりづらい、読みづらい、わかっても特にためにならないもの(本人たちはマジでそれが正解だと思って書いてしまっている為)にしてしまっている気がしますが、少なくともわかって、しばらくして何だ全然単純な話じゃないかと気づくまでは「すげーすげー」と興奮できる知的パズルなようなものではあるので、その興奮のためだけにもこれからもこういう誰も読まない、誰も興味がない、岩波文庫ぐらいしか出版してくれない本の存在意義はあると思います。

 

バクーニンファンとして読み応えがあったのは、本の後半で説かれる「究極の国家」という概念ついての記述です。これは地上的世界での人間の究極目的は何か、が論じられている箇所に出てくる一文なのですが、ここでフィヒテは人間が理性的な生き物であり、社会的な生活を営んでいる以上、その究極の目的は最高の国家の創生以外にありえない、というものです。たしかに人をヒトという生き物の一種だとすると、この本が出版された1800年にはダーウィンは生まれてすらいませんが、蟻が進化の過程で巣を作りすぎて蟻塚みたいなものすごい芸術的な領域まで到達してしまったように、人間も究極国家を作るのが極地点にちがいない、というのはありそうなことで、こういう箇所(+「お前の信じた道を行け!」的松岡修造イズム)が青年時代のバクーニンに与えた影響は計り知れないものがあったのではないかと思います(というかモロ..)。この究極の国家云々、というのはすぐさまフィヒテ本人によって、「でも究極の国家作ったらそのあと目的がなくなるし、維持も大変だし、そもそも人間はずっと変化していくものなのだから最高という停止した状態に滞まり得るとは思えない。」と切り捨てられているのですが(この辺りどうもフランス革命を意識してるくさい)、「良心の声に従って生きる(その結果どうなろうと知ったことではない)」をインプットされ、「究極の国家」というスローガンを見つけたバクーニンがその後どうなっていったかを考えていくとと少しぞっとするものがあります。1814年、バクーニンが生まれた年にフィヒテはこの世を去りました。

 

 

Johann_Gottlieb_Fichte

1762-1814

‘”良心”ほど恐ろしいものはない。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です